機会を逃した下書きの行方
日々の中でふと思いついたアイデアだとか、その日のうちに書きたいと思った事象があって、記憶を頼りに書き出してみる。
けれども「なーんか筆が乗らない」エントリ。それらが、積もりに積もって下書きとなっておる。タイトルがないもの、2、3行しか書けなかったもの。そこはかと長文なのに着地点を見失って終われないもの。どうしよう。
そこそこ長文になっているものは、文章の長さの分だけこだわりや執着がありそうだ。できることなら、ちゃんと書き上げてやるのが望ましいと思う。
だけど、どうしてだろう。その思いの集積は、いつの間にか劣化してしまうのか。「書こう」と思ったタイミングが過ぎてしまうと、それを書くことの熱がぼやけてしまう。
望むらくは、下書きに放り込まれる前の熱量に戻してやりたい。けれど、それはやっぱり無理な話なんですね。
食べものに旬があるように、書きものにも自分の中での旬があるのだと思う。その旬を過ぎてしまったら、また巡ってくるのを待つことになるのだな。残念だけど、いまじゃなかった。
少し気になったので、わたしのブログの下書きは現在。どのくらいあるのかと確認してみたら、思っていたより少なかった。そういえば、数日前に思い切って消したのだ。
「いつか書くかもしれないから」としがみ付いていたけれど、「たぶん書かない」ような気がして。熱量が去った自分のことはよく知っているから、この「たぶん」は確信に近いものがある。
また、下書きというものは「いつでも書けるように」と準備をしている側面もある。備えあれば憂いなし、それはそうなのだけれど。書かないまま溜まっていくのを目にするのは、逆に「ほら、早く書いてしまいなさいよ」とでもいうような、変な圧を感じてしまう。これは、被害妄想と自意識も過ぎるが、豆腐メンタル民の精神衛生上よろしくありません。
だから、(消して)そっ閉じ。 (¯・ω・¯)b ヨシ