愚かで正しい選択について
よく考えた日は日記を書きたくなるね。
たった一行でもいいから、言葉を書き残しておきたい思った。書き出して自分の内側の映像が動き出したら、きっと一行で終わったりはしないと信じてる。
下書きをしておいて、後日書くのもよいと思う。時間を気にせず、じっくり腰を据えて取り組むことができるから、それだけしっかりとしたものになる気がする。たぶん、遅筆な自分にはこちらの方が向いているのだろうな。
けれど、あのときに感じた「感触」というのには旬というものがある。あのとき、自分の気持ちが動いた、あの瞬間に得た「感触」。それが風化しないうちに書いてしまいたいと思ったのだ。この度は。
あと数分で今日という日が終わる時間に書いているけど、これを書き終える頃には日付変更線を跨いでしまうだろう。そうなると厳密には毎日更新ではなくなってしまうのか。残念。
* * *
残念だけど、また毎日更新すればいい。それでいいのだ。
* * * (昨日ここまで書いて余裕で零時を過ぎた。)
……って、繋げてあっさり終わりにすることもできる。し、そうしてもいいはずなんだけど。この「できる」と「いいはず」の間でアホみたいに些末なことを悶々と悩んで、挙句、愚かで正しい選択した自分が居る。恥ずかしいけどそのことを書いてしまおう。
たぶん、一段目の * * * のところで切り上げて更新してしまえば、昨日の日付のうちにギリギリ間に合ったと思う (そうなの?) 。でも、どうした訳か更新ボタンを押すことができなかった。あんなにアホみたいに悶々としたのはどうしてだろう。
なぜそれを「愚か」で、しかも「正しい」と書いたのかな。昨日はこのことに囚われてしまい、考えあぐねてなかなか寝つけなかった。起床してからも、気が付くと悶々としていた。やっぱりこのままにはしておけない。
この記事も下書きのまま寝かせておけば、こんな「感触」のことなどすぐに忘れたに違いない。なのに、何をそんなに。私は引っかかっているのだろうか。でも、読み解きたい「なにか」がそこにはあると思う。
思考の読み解きは、いつだって一足飛びには運ばない。私は思考の断片を小さく分解してからでないと、手掛かりが見つけられない。それが見つかってはじめて、解へと向かうことができる。実にポンコツ。
まず、何に対して「愚か」と感じたのか。
それは、時間を際限なく使う事への罪悪感だと思う。一生懸命書いたところで、一銭にもならないと知りながら、時間を湯水のように使う事への罪悪感。
もし、私が「書くこと」を生業とする者だったのなら話は別ですが、一個人のブログ好きなので、時間をかけても天辺は知れているというか。どこまでいっても、時間の無駄使いなんじゃないかと思うからです。
それなのに、「正しい」と結論づけたのはなぜなのか。
ただのブログ好きが続けて書こうと思ったら、書く力をつけていくしかないから。書く力というのは、書いくことでしか育てることができないからです。書く力のない私には、ハードルを下げることよりも先にやることがある。
たしかに、完璧を目指さず小さな成功を達成するのは上手いやり方だと思う。だけど自分の甘さに負けたくなかった。「もう少しだけできるか?」、「否イッパイイッパイだから、小さな成功で手を打っておこう」みたいな。
成長する好機のときに、そういう甘さを選択しない自分になりたかった。そんな自分になれたら、少しは好きになれそうだし、なにより自分を信頼できると思ったから。
何ごとにも優先順位はあるし、仕事じゃないからときどきは緩くていい。でも、昨日は緩さを発揮するときじゃなかった。だから、しんどいことに負荷をかけた私を「正しい」と判断したのだな。ここまで書いてようやく解かった。いつもの3倍書いたわ、ポンコツめ。
今回も、とてつもなく個人的な内容なので、為になるような要素はありませんが、そこらへんはよろしくお願いしときます。それでも読んでくれたあなたには、ありがとう。